このたびの熊本震災では多くの方々が犠牲になられ、未だ収まる事のない余震が続いております。先の見えない不安な日々を過ごされている事を耳にするにつれ、1日も早い日々の安寧を願わずにはいられません。
9万人もの避難された方々がおられ、余震の続く中、車中での寝泊りに、避難所でもプライバシーのない過酷な生活を余儀なくされている現実が毎日のように報道されております。私たちに今できることはなんだろうと皆さんも毎日思われ、義援金や物資の提供、ボランティアなどそれそれが出来ることをなさっている事と思います。
東日本大震災においても、未だ復興は進んでおりません。熊本震災でも、人々の被害の他、皆さんがご存知の熊本城・通潤橋・神社仏閣・などの歴史的な建造物も」大きな被害を受け、これから梅雨の時期に入り台風の被害も心配されています。
佐世保に住んでいる我々にもいつどのような災害が起きるか、例え備えをしていても万全ではないのかもしれません。しかし、自分たちの町・地域での対策をきちんと行い安全に備え、今できる事を考え自分の身は自分で守れるよう準備をしないといけないのかもしれません。
このような未曾有の自然災害があるたびに思う事は、自然の前では我々人間は無力であると言うことです。便利なあまり頼っている文明の利器も太刀打ちできない被害にみまわれると言う事です。
しかし、こういう時だからこそ小さな一人一人の力が大きな力となります。それぞれの立場で自分に出来る事を続ける、そして、続けていく息の長いマンパワーこそ復興に繋がっていくのではないでしょうか。
本日の大護摩祈祷は、震災に遇われた方々の供養と1日も早く復興がなされる事を祈念いたしました。被害にあわれた方々の心の平穏を心より願っております。
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平成27年11月18日 法話
私事ですが、9月半ば、12月の除夜の鐘の餅つきの時に使う薪を用意しようと思い、寄付していただいた斧を使っておりました。中々うまく割る事が出来ず、とうとう腰を痛めてしまいまして1か月以上、腰痛に悩まされました。
昔の方々は、斧を使って上手に薪割りをなさってました。中々難しく、斧を振り下ろすのですが、スパッと割れずにひっかかるので、何度も振り下ろすことになり、それが腰にくるのでしょうね。しかし、気を付けて物事を運ばないといけない年になってきたんだなと実感致しました。
さて、今年は、ちょうど戦後70年になります。福石観音でも、特に四万六千日祭におきまして、その事を念頭に置きイベントを行いました。戦後、私たちは人生50年という時代から今では、80、90年と長息ができる時代になったと感じています。
その中で私たちは何故この世に生を受けたのか、何のために生きているのか、命の使命感というところに気持ちを持っていくのはなかなか難しいと思うますが、命を知ると言う事は、大変必要な事です。また、我々はその命を使う使命についての考えが様々であるのは当然の事ですが、その反面特に何も考えずに毎日を過ごしている人がいるのも残念ですが然りだと思います。
しかしながら、最近のニュースのなかでは、20歳過ぎのお父さんが幼児にタバコを吸わせてそれをネットに流すという事が報道されていました。皆さんはどうお感じになられましたか。呆れてものも言えない。そういう気持ちになる方も多かったのではないでしょうか。
ネットが悪いと言う事ではありませんが、使い方によっては、被害者や犠牲者を出してしまうという事実を忘れてはいけません。また、一度ネット上に公開された写真は、取り消すことは不可能です。私たち使う身が考えないと、色んな形で悪い習慣というか、悪い世の中を作っていくものの1つのツール・手段になってしまうのではないか。そういう恐ろしさを感じています。私たちもその事に、無関心で生きていられないのです。
また、数日前には皆さんもご承知の通りフランスでテロが起きてしまいました。今のテロリストが恐ろしいのは、武装している訳ではなく、日常、我々が家族と共に楽しむ、劇場、レストランなどで無差別に人の命を奪うと言う事です。フランスの首相は、この行為は戦争と考えていいとの発言をし、そうとも思える状況にニュース報道を見て、平和的に解決できないのかとただただ祈る事しかできません。私たちそれぞれが、平和というものを真剣に考えないといけない時代になったように思います。平和な世の中を作っていく、それが使命であり、その為に祈ると言う事も大事な事です。犠牲になった人たちが、本当にまさかこんな形で命を奪われてしまうと誰が予想できたでしょう。残された家族の方々の苦しみや悲しみが少しでも癒されることを願わずにはいられません。
私は、平和というものは永遠に続いて欲しいと強く願っておりますが、現実はそうではありません。この日本も宗教には関係なく平和というものについて考える時にきているのかなと思います。
お観音様は、慈悲という事をとても大事になさいます。自分の事だけではなく、周りの方の事も考え行動していく、その慈悲心という生き方、1人でも多く、そういう方が増えていくことを願って、これから先、人々が平和な世の中にする為に、努力を惜しまない事が大事なのです。
なぜ私はこの世に生まれてきたのか、立ち止まって考えてみる時間も私たちには必要なのではないかと、深く感じます。
平成26年4月18日 法話
桜が終わるとつつじが咲き始め、花を愛でる気持ちというのは皆さまも一緒だと思います。季節の移り変わりと共に咲き変わる花は、日本人の心に深く浸透し、色んな思いを呼び起こし私たちを癒してくれます。桜の開花が北の国までいくと、今度は新緑の季節へと変わります。4月・5月というのは私たちの気持ちを解きほぐす、心の温もりや安らぎをふつふつと感じさせてくれる季節、そういった思いが致します。花といえば香り、花の香りもまた風に乗って、私たちの心に染み入り豊かな気持ちにさせてくれます。
人はそれぞれいろんな生き方があります。よく徳を積むと耳にしますが、徳のある人になるというのは、大変難しいものです。どういう考えを持ちどういう行いをすればいいのだろうと考えますが、必ずただただ1つの方法に向かって進むのではなく、柔軟性を持って色んな場所に行き、相手を思い損得を考えずに行いをする事でいつの間にか徳を積んでいる事になるのではないでしょうか。人が徳を積む事によって、それぞれの心の育み方、得る物も違ってくるのです。我々もそう思って、1日1日徳を積むように毎日を過ごしてますが、そういう生き方と言うのはとても難しいものです。
だからといってあきらめるのでなく、少しでも徳を積む生き方が出来るよう努力することが大切なのです。
4月というのはスタートの時期で、花とともに我々も自然界で新たな場所へ旅立つ時期でもあります。各言う私の長男も、4月より本山(京都智積院)へ修行に入りました。やっと本山での修行の時がきたと思うと、今までが長かったと言う思いと、自分も年をとったのだとしみじみ感じ入ります。1年間の修行が本人にとって厳しい現実への第一歩なので、不安もあり楽しみもあり色んな思いが混ざったスタートだと思います。私も長男に付き添い本山の得度式・入学式へいってまいりました。得度と言うのは、本山の管長さまの前で、今から自分はどんな時でも、仏様と共に一生を過ごさせて頂き修行に入ります、という覚悟の式です。坊主頭にしますが、もみあげだけ残し得度式で管長様に剃って頂きます。長男も前日までは茶髪でしたが、しっかりと剃りあげた姿は、1年間俗世間と離れる覚悟を決めたように思え、自分自身の得度式と重ね合わせ、自分を映すように懐かしくまた頼もしく感じました。私も出家して40年以上たちますが、本当に時の流れの早さを感じます。
修行の1年間は俗世間と離れ、未知な世界に入る厳しい世界への第一歩です。今まで休日は昼まで眠っていた長男ですが、本山では午前3時起床になります。本山に入り1週間はまだ、電話も出来るため足りないものを送ってくれとかかってきました。本山での様子を聞くと「なかなか、眠れません。」と、言っておりました。多分、夜遅く眠ると、起床が午前3時過ぎ頃なので起きれないかもしれないと不安に思うと、きっと眠れなくなるのでしょう。修行をする皆が通る道なので、慣れてくるとは思いますが、我々が修行をしていた時に比べると、内容的にも厳しくなったように感じます。
また、若者は勿論の事、我々も手放せない携帯電話・パソコンは持ち込み禁止です。長男は携帯を、解約して本山に入りました。当然連絡手段は、手紙となります。今は、何でもメールで済ませるので、自分の思いを文にする事は、これから先の人生にとってとても大事な事だとそういう思いが致します。最近、押し入れの整理をしていると私の修行時代に父から送ってきた手紙が出てきました。まだ仕送りは現金書き留めで送ってきておりましたので、お小遣いは大事に使うのは勿論ですが、現金書き留めの封筒でもなかなか捨てられず、送ってきた手紙は、読み返しておりました。やはり親は有り難いなと、手紙に書いてあるのは他愛のない事ばかりで、「お前が一生懸命精進して修行するように」の一言ですが、それが有り難く40年近く捨てられず大切にとっておりました。「何故、僧侶にならなければいけないのか」と寺に生まれれば、物心ついた時から、ずっと思ってきた事の答えが本山での修行の場に自分の身を預ける事で少しずつ見えてくるのです。言葉遣いが変わり、行動が変わっていく。厳しい中で自分と対峙する事で何かを感じ得るのかもしれません。こう考えると機会があればどなたにでも勧めたい、そういう思いです。
新たな出発において、一輪の花がどういう咲き方をするのか判りませんが、我が子も頑張っているのだから、私も何か始めようと思い、禁煙に挑戦しましたが、3日間で終わってしまいました。何度も挑戦していますが、成就できずにいます。
そういったことを思いながら4月というのは、花の香りや人生の生きる道を求め、新たな自分を見つけるスタートかな、という思いでこの一年過ごしてまいりたいと思います。皆さま方も今年度4月からのスタート、お体に留意されてお過ごし頂ければと思います。
H25 12月納観音 法話
皆様こんにちは。早いもので今日が今年最後の十一面観音さまのご縁日となりました。
今年の後半は、7年後のオリンピックが東京で開催決定となりその話題でもちきりとなりました。私たちの中では、お互いが手と手を繋ぎ人と人との絆を大切にする事は、人生誰であっても一人では生きていけないからです。人との和、手に手をとる輪を大切に、我々にとっても人生最後のオリンピックになるでしょう。生きていく楽しみの一つになるのかもしれませんね。
今年一年、皆さまにとってどうでしたでしょうか。振り返って、反省ばかりではありませんが、新年を迎える心の準備として静かに自省する事も大切なのでは、と思います。
ただただ長生きをして年を重ねるように見えても、1日1日を大切にすることでこの1年を無事に過ごす事が出来たのではないでしょうか。
もう12月も終わりに近づき新しい年を迎えます。皆さんもそうだと思いますが、1年過ぎるのが早いですね。でも、子どもたちは違うようです。何故なのでしょうか。それは、20歳頃までは、社会性・勉強など新しい経験を毎年毎年積み重ねているからだと思うのです。30歳も過ぎれば、結婚をし子どもができ毎日・毎日が同じように過ぎていくと、変化のない毎日のように感じます。今までの経験を生かす事は出来ますが、さほど変わらない生き方をしています。また年と共に体の動きも鈍くなってきます。私たちの生きている風景も自分の周りで起きる事もがそれ程変わるわけでもなく、全く同じ時間でも経験の豊富さと不足で、1年の感じ方は違ってくるのかもしれません。
しかし、私達にもそれぞれ頂いた命が平等にあります。これは自分なりに自分の事だけ考えて生きている人はいないわけですから、やはり来年はこういう生き方ができればいいとか、また、新たな自分の目標を持ち、自分の事だけでなく人の為に出来る事を行うことが大事なのではないかと思います。
また、生かされた経験というのを是非、子どもや孫に伝えてあげて頂きたいと思うのです。皆さまは、今まで生きて来られた学びの1つ1つを子や孫に伝える役割と責務を担っています。そのことも忘れずにいて頂きたいと強く感じます。
この1年、皆様には献身にお参り頂いて1年を無事に過ごされ、12月の納観音にお参り頂いたことに感謝の気持ちで一杯です。病気をする事もありますがそれに対しても向かって頂き仲良くつきあっていく、というのも皆さま方の年齢にならないとできない技かもしれませんね。皆さま、1年間ご苦労さまでした。どうぞ、よいお年をお迎え下さい。
平成26年1月18日 初観音 11時大護摩祈祷修業 ぜんざいのご接待も致します。どうぞ、お参り下さい。
平成25年9月18日 法話
今年の夏は猛暑でしたが、やっと涼しさを感じる時季になりほっとしております。
皆さん、それぞれ持病を持ってらっしゃると思いますが、私も節目を迎えるお祝い(還暦)が近くなり、遺伝的なのか、生活習慣から来るものか、持病とお付き合いしながら不摂生をしないように心掛けております。
9月といえば、防災の日・敬老の日を思い浮かべます。9月1日は防災の日でした。東北大震災も復興途中でありますが、先日の千葉・栃木の竜巻・突風、18号台風による被害など、毎年新たな災害が起きています。
私は、長年京都に住んでおりましたが、テレビに映し出される映像を見て、嵐山・福知山にあれ程の災害が起きるとは予想だにしませんでした。昔から、「備えあれば、憂いなし」と言われますが、ここ近年、温暖化の影響か、自然の猛威になすすべがない状況を目の当たりにします。何をどのように備え、対処すれば避けられるのか、人間は自然の前では無力であると、この9月はつくづく感じさせられました。
また、お年寄りを敬う、敬老の日も終わりました。今、敬老と言われる方たちは、戦前戦後の苦しい時代を生き抜いてこられた方が半数以上いらっしゃると思います。激動の時代を乗り越えて、現在でも健康に、または病気と上手にお付き合いしながら、90歳・100歳という長寿を迎えられています。我々は、今の平和な時代を築いて頂いたことに感謝をし、祝福してあげなければいけないと思います。
長生きするばかりが人生ではないと、太く短くと考えられる方もいらっしゃるかもしれませんが、長生きされるには理由があり、大正・昭和初期の方々は、粗食に耐え我慢する事を当たり前のように受け入れてこられ、生活習慣病の原因となる食生活にも気を配れる年代なのでしょう。我々は、飽食の車社会に生きており、一病息災はもちろんの事、健康は自分で守っていかなければならないとは判っておりますが、なかなか難しい事です。
戦前・戦後の苦しい時代を生き抜いてこられ、敬老を迎えられた皆さま方の労をおねぎらいするのは敬老の日が一番です。それと併せて私が常日頃思いますのは、「実るほど頭の下がる稲穂かな」という句がありますが、文字通り花を咲かせた後は、実がみのり穂先が下がってくる。正に、我々が人生を生きていく上での道を表現している句だと思わずにはいられません。年を取っていくとともに人間的にも角がとれ丸くなるように努力する事が大事で、よく家族や近所付き合いの中で、お互いの挨拶がうまくいかないなどお聞きいたします。
人間は必ず死を迎えます。日々の生活の中では深く考えませんが、恨まれて亡くなる方、惜しまれ・偲ばれて亡くなる方と様々です。「あの方が亡くなってしまった。もう少し長生きして欲しかった。」と、言われるような亡くなり方を誰もが望んでいます。そういう最期を迎えるためには、周りへの感謝を忘れず、謙虚に生きていく事、角をそぎ落とし一日一日を大事に過ごしていくよう心掛ける事がいいのではないかと思うのです。私も、自分では気づかないのですが、眉間にしわを寄せ憮然としていると妻から言われる事があります。そのせいか、二人の娘からは、何となく敬遠されているように感じる事もあります。娘が成人すれば、この親子関係も変わるのではないかと期待をしつつ私自身も改めていかなければと思っています。お互い、笑顔で日常を送れるように努力は惜しまないようにしたいものです。
自分の生きざまを家族に伝えるためには、年上の人が悟り、後姿や言葉・態度で教える事が肝心です。家庭の中の中心人物が手本を示し動くと円満になる。そういう家庭づくりの中で幸せな敬老に近づいて頂きたいと思います。もうすぐお彼岸になります。(9月20~26日)
此岸・・・この世
彼岸・・・浄土
此岸というこの世界で、家庭を振り返り、勤(いそ)しむ考えを持って行動していく事が大切な事ではないかと考えます。
実りの秋。今年は、野菜も高騰しておりますが、お百姓さんはそれ以上にご苦労なさっています。
暫くは秋のいい気候が続くと思いますが、いろんなことに思いを馳せながら感謝を忘れず、気持ちを整える心づくりをそれぞれ培って頂けることを願っています。
来月10月18日(金)11:00大護摩祈祷修業
平成25年8月18日 法話
8月18日 法話(抜粋)
今年も終戦の日・お盆を終え、新たに命のつながりについて考えずにはいられません。
戦争という1つの権力によって、作り上げられる思想によって忠義を誓い亡くなっていった方々、事故・病気など亡くなる理由は様々ですが、今、先祖の方々が私たちに何を望まれているのか。
我々が死んでいく時、何を残せるのかと考えます。自分を支えて下さる周りの方に手を差し伸べ、心を寄せていく、自分以外の人々に思いを寄せられるような心豊かな子どもたちを残していきたい。そう、思うのです。
国内だけでなく外国にも目を向け、日本人も共に頑張り、命の交わりを深めていく。世界平和を思うと、先人達が、私たちに託されていることの1つになるのではないでしょうか。
1年を考えると早いですが、1日1日の命は長く感じます。眠ったまま死んでいければ一番いいと思いますが、そうはいかないものです。生きている限りは、命というものは何だろうと考え続けるでしょう。人は死ぬまで一生懸命生きていけばいいのです。自分が生きる為だけの命ではなく、周りの人々にも目を向け愛情を注ぎ、慮る(おもんばか)事ができる、これがお観音様の教えであります。私たちがお参りしている姿を観て、「おまえにもこういう働きが出来る。」とおっしゃっているように感じます。私は本当にできているのか。と、思うこともありますが、常に謙虚に・感謝を忘れず生きていかなければと思っています。
もうすぐお彼岸です。今年は暑い夏でしたのでだんだんと涼しくなればと思います。皆さまお大事にお過ごし下さい。
次回9月18日(水)11大護摩祈祷修業致します。
京都AMラジオ初出演!
京都・滋賀を中心に大阪・奈良の近畿圏で放送されている、「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」毎週月~金の朝6:30~10:00までの生放送に来週7月29日(月)8:10頃、電話で生出演することになりました。
生出演するコーナーは、「あっちこっち ほっかほかだより」で、日本全国各地にスポットを当てて様々な話題をお届けするコーナーです。今回は8月に開催される夏祭りについての放送になります。福石観音で毎年8月8日~10日まで開催されます四万六千日祭について、開催の概要やイベント情報などをお話しする予定です。
福石観音清岩寺は真言宗のお寺で、本山は京都東山七条にある智積院(ちしゃくいん)です。今回の、京都AMラジオ生出演、とても楽しみにしています。
平成25年 7月18日 観音様縁日
毎月18日は観音様のご縁日になります。当山では午前11時より大護摩祈祷が始まり、12時頃から住職の法話となります。以下、法話の抜粋です。
一年の中で一番暑い7・8月、先祖供養の時期になりました。
全国の寺院で、7・8月に行われるのが施餓鬼供養です。奥の深い、私たちの心の在り方に繋がってくる供養になります。お釈迦様の10代弟子の中の目連尊者は、お釈迦様に長年仕える強い神通力を持った方でした。ある日夢の中で、このままだと餓鬼道に堕ちてしまうと言われ、お釈迦様にお尋ねしたところ、いろんな食べ物を施しながらたくさんの餓鬼の供養をしなさいと言われ、言われる通りに餓鬼の供養を行いました。
その時お釈迦様が、目連に授けた教えがほかならないこの施餓鬼の法となっているのです。 自分の先祖だけでなく、供養されず彷徨っている餓鬼までも救う心持ちが、自分自身を救うということになるのです。
もう一つ、身近な先祖だけでなく命の根源となる先祖までお迎えするのがお盆です。
沖縄では、家族全員がお墓に集まり、食事をし、歌ったり、踊ったり、賑やかに先祖の帰りをお迎えします。よく盆踊りと言いますが、先祖を喜んでお迎えする、また、秋の豊作を祈る為始まったと言われるように、自然の恵みに感謝すると同時に、大切な方が亡くなった今でも、家族皆で寄り添い前を向いて明るく一生懸命生きていますという気持ちを形に表しているのです。
また、先祖を大切にする仏教的な習慣・文化として、お釈迦様のお誕生日の花祭りもありますが、日本人はクリスマスに重きを置き、仏教の教えを説いたお釈迦様の花祭りには関心を示さない方も多いようですが、仏さま・先祖に感謝する日本人特有のいにしえぶり、文化の継承を忘れてはならないと思っています。感謝、感謝と言葉では言っても、心・体で相手にお伝えするのはとても難しい事です。相手が生きている間に伝える事ができれば、何の悔いも残りませんが、伝える事ができなくても、忘れず精一杯日々を過ごし生きていく事が、亡くなった方へ感謝を伝える追善供養となるのです。
来月始まる四万六千日祭は、8月8日~10日までの縁日にお詣りすればお観音様のご利益を頂ける、これも日本に根付いた文化と言えます。
観音霊場は全国どこに行ってもお詣りできます。実は、観音様と私たちはとても近い所にあり、未熟な私達を救うため、姿・形を変えて、悩んでいる人々をお救いくださる観音様の慈悲、大慈悲であり今でも観音信仰と言われ、人々の信仰を集めています。
7・8月には、地蔵盆もあります。若くして亡くなる方や、生まれてすぐ亡くなる赤ちゃんも多かった事から、子を慈しむ母の心がお地蔵様を奉り、地蔵信仰を日本各地に広め現在に至っているのです。こういう事を深く考えお参りすることは少ないと思いますが、7・8月というご先祖さまに一番近い時期を迎え、新たな気持ちでお精霊さま、ご先祖さまを一緒にお迎えして頂きたいと思います。
皆様は、毎日がご先祖様とのおつきあいかもしれませんが、普段の生活の中では、ご家族の皆さんと亡くなった方へ向かう気持ちを話し合うということもないでしょう。お盆の時は、ご家族が自宅へ帰りお揃いになる。そういう時こそ、お互い先祖への思いを言葉にし、懐かしい思いを寄せてあげることが、亡くなった方が喜ぶ事で供養になり、だからこそ我々が忘れることなく迎えてあげる準備をするお盆の行事も、子々孫々へ伝えなければならない大事な仏教徒の文化であるのです。
8月17,18日に行われます、京都の大文字焼きの送り火は、奈良・平安の時代から亡くなった方が迷わないように火を使いご供養する形であります。
迷わず自宅へ帰るように灯篭に灯りをともし、灯篭の下には、手を洗う水とタオルを用意しご先祖さまをお迎えする。御仏壇には、自宅へは早く帰り、西方浄土へは遅く戻るように、と野菜のなす、キュウリをお供えする等、日本各地に今でも根付いている風習もあります。
今年はそういう思いの中にご先祖さまをお迎え頂きたいと思っています。
過去を振り返り、現在を見つめ、今は亡き精霊に供養を尽くすことが、人を思いやる事のできる自己の完成に繋がるのではないでしょうか。
今年の夏は殊の外、蒸し暑い日々が続いております。熱中症などに掛からないよう、くれぐれもご自愛下さい。
初観音
四萬六千日祭・お盆 無事終了
今年も、8/8(水)~10(金)までの3日間、四萬六千日祭が開催されました。夕方から雷雨の予報も出ており、お天気を一番心配しましたが、お蔭さまで11日の後片付けまで雨にあうことなく、実行委員会・奉賛会、有志の皆様のご協力により平日にも関わらず、たくさんの方々にお参り頂き、三日間の本尊(十一面観世音菩薩)ご開帳も、無事ご閉帳致しました。暑い中での連日のご奉仕に、深く感謝申し上げます。
今年度は、「あなたに大切なもの」をテーマに開催いたしました。
あなたに大切なもの・・・、やはり、家族や友達、命など、かけがえのない人と人とのつながりを大切に思っている方が多かったようです。当たり前の日常は、永遠に続きません。いつか必ず別れがきます。だからこそ、今、一緒に過ごしている時間を大切に、お互い寄り添い、支え合って生きていきたいと思います。
お盆では、灯篭に灯りを燈し、故人をお迎えします。今年は、母の初盆で、三日間、母が好きだったものを作り、精進膳をお供えしました。「美味しかね」、大好きだった花を見て「綺麗かね」と言ってるようです。私が、生まれてきたのもご先祖さまがいらしたからです。お蔭さまで、みな無事に過ごしています。感謝で一杯です。
四萬六千日祭からお盆にかけて一週間、改めて大切なものを見つめる時間を頂きました。お観音さまに感謝申し上げます。