谷口藍田先生書

谷口藍田先生の書があります。
谷口藍田は、文政五年(西暦1822年)生まれ。
年譜資料には、明治二十二年(西暦1889年)当時68歳の頃に佐世保に来たことが記録されていますが、今となっては福石観音との関わりがどうであったかは判りません。

【写真上】福石観音本堂に向かって右手の巨岩に掘られた谷口藍田先生の書。「清巌」と書かれています。

【写真下】福石観音本堂にかけられた谷口藍田先生の書。「慈眼視衆生」慈眼衆生を視る(じげんしゅじょうをみたまふ)。観音経の一節です。


谷口藍田

谷口藍田(たにぐちらんでん)

文政5年8月15日(1822年)肥前有田生まれ。
江戸に出て古賀侗庵、佐藤一斎、佐久間象山などに学んだ。弘化四年(1847)佐賀弘道館に学び、有田に私塾を設けた。その後、長崎でフルベッキに英学を学び、副島種臣らと交わった。
明治元年(1868)長崎にて沢宜嘉の命で清国との隣好規定を作成したこともある。鹿島藩主鍋島直彬に招かれ、弘文館教授などを歴任。鹿島義塾塾長、ついで藍田書院で子弟を教育した。
明治35年(1902年)11月14日没、墓所は青山霊園にあります。