施餓鬼法要

施餓鬼法要 平成28年7月11日

先週、7月11日(月)11:00より清岩寺にて、施餓鬼法要を厳修致しました。

皆さま「お施餓鬼」をご存知でしょうか。
お施餓鬼とは餓鬼に色々な飲食(おんじき)を施すことです。また、今、自分に与えられた生命を尊び感謝し、長生きを願うという意味と、追善供養として三界(すべての世界)萬(ばん)霊(れい)の有縁無縁の精霊と、檀信徒の先祖先亡の諸精霊を供養する事の意味もあります。

この施餓鬼の由来についは「救抜焔口餓鬼陀羅尼神(くばつえんくがきだらにしんじゅ)呪(じゅ)経(きょう)」という経典に次のように説かれています。
お釈迦様の十大弟子のひとりにお釈迦様の法話を一番多く聞いたところから、多聞(たもん)第一といわれた阿難(あなん)尊者というお方がおられました。
ある夜、阿難さまが森の中で一人静かに座禅しておりますと、突然、体は醜く痩せ細り、喉は針先のように細く、髪は逆立ち、口からは焔(ほのお)を出す焔(えん)口(く)という餓鬼があらわれて「お前は三日のうちに死ぬ。そして私のような醜い餓鬼に生まれ変わるであろう」といい、さらに「そうなりたくなかったならば、餓鬼たちにたくさんの飲食(おんじき)を施せ」と阿難さまにせまりました。阿難様は驚き、恐ろしくなって、お釈迦様の元へ飛んでゆき、どうしたらよいでしょうかとお尋ね致しますと、お釈迦様は「施餓鬼棚に新鮮な山海の飲食をお供えし、供養を営みますと命は助かり、お悟りもひらかれ、お釈迦様のお弟子さんの中で最も長生きをされたそうです。これがお施餓鬼の始まりです。

わが国には平安時代のころ伝来し、鎌倉時代以後、地獄思想が普及するにつれて広く一般にも営まれるようになりました。私たちは、毎日なにげなく口にしている米や野菜、魚、肉などの生命(いのち)の犠牲のうえに成り立っているといっても過言ではありません。つまり、自分自身が長生きできますようにと願うばかりではなく、人間以外の生命をも尊びなさいという教え、これがお施餓鬼なのです。
五如来の願い

お施餓鬼の法要には、飢えに苦しむものを救うばかりでなく、延命長寿を祈念する目的もあります。ですから本来はいつ営んでもよいのですが、餓鬼道で苦しむ母親を救った目連様のさまの説話と似ていることから、お盆の時節に行われることが多くなりました。しかし、ごく日常的に営んでいるところもあります。お施餓鬼の法要にお参りいたしますと青、黄、赤、白、黒(紫)の五色の旗が風にゆられてヒラヒラとまっているのをご覧になったこともあるでしょう。
過去(かこ)宝(ほう)勝(しょう)如来=むさぼりながら生ずる悪い行いをすて、自己に対して清らかな心、他に対しては思いやり心をおみがえらせてくれる。
妙(みょう)色(しき)身(しん)如来=餓鬼のような、醜く、いやらしい姿から美しい姿に導いてくれる。
甘露王如来=仏の法を身体と心にそそぎ、無上の喜びを与えてくれる。
広(こう)博(はく)身(しん)如来=餓鬼の針先のように細い喉もとを広げ、布施した食物を自由に食べられるようにしてくれる。
離怖畏(りふい)如来=すべての恐怖を除き、餓鬼のせかいから離れさせてくれる。
と五つの如来さまの名前が書いてあります。
これは、物惜しみしない豊かな心で、醜い心を美しくし、心身ともに清らかな慈悲円満の力強さを意味しています。この五如来の願いが、今日のお施餓鬼の基本となっているのです。
とらわれを離れる
餓鬼とは、食べ物がすべて火となって食べる事ができず、水は焔となって喉を潤す事ができない、飢えと渇きの世界です。これは、六つの迷い(六道=天上、人間、修羅(しゅら)、畜生(ちくしょう)、餓鬼、地獄)の一つに数えられています。ところで昔は、よく子どものことを「この餓鬼は」などと怒っていましたが、子供は大好物の食べ物を見ると、いくらでも食べて、これでいいという満足を知りません。満腹しても、まだまだ食べようとします。こうしたガツガツして満足感を知らない事を「餓鬼」というのです。これと子どもがよく似ていることからこんな言葉がでたのではないでしょうか。しかし、よく考えてみれば、なにも子どもに限ったことではありません。恥ずかしい話ですが、大人もガツガツした不平・不満だらけのガキの心をもっています。
物欲、金銭欲、名誉欲、性欲などが数えあげたらきりがありません。こうした浅ましい「ガキ」の心をもった人は数限りなくいます。
一切の力を捧げる
 静かに自らを反省してみると、私たちはいつの間にか、何かにとらわれ、思い込み、大なり小なり餓鬼道に足をふみいれるのではないでしょうか。何かに悩むのは、何かにとらわれ、しがみついているからです。そして、自らを餓鬼道に堕(おと)しいれているのです。
私たちの生活の中で本当の満足というものは得られるのでしょうか。いつも不平・不満ばかりです。しかし、この不平・不満があるからこそ文化を発展させることができたのも事実です。もっと楽しい事はないか、もっと便利なものは考えられないか、といった不平・不満が研究や工夫を重ねジェット機、新幹線、コンピューター、電話などの発明、発展に結びついてきたのです。このように不平・不満が文化の発展、向上につながるのも事実ですが、醜い形での不平・不満は犯罪と結びついたり、餓鬼道に堕ちたりするのです。車も正しく使えば文明の利器となりますが、スピードの出し過ぎや交通ルールを守らなかったがために事故を起こし、人の生命までをも奪ってしまう凶器となるのです。
「ガキ」とは「とらわれ」「しがみついた」浅ましい心のことです。この「ガキ」の世界からのがれるには「とらわれから離れる」、「手放す」ことです。
この「とらわれから離れる」「手放す」には、「布施」の心を持つことです。
財乏しく、智慧足らず、力弱き私たちではありますが、財乏しき中、智慧足らざるままに、自らの力のかぎり精進させていただくところに「布施行」があります。施すことによって、生きとし生けるすべてに感謝し喜びのある、きれいな心になるのです。さらに一歩進めて考えるならば、自らができ得る一切の力を捧げるという精神を養う事が「お施餓鬼」の目指すところなのです。こうした意味をよくくみ取り生活の中に生かし精進努力したいものです。
転法舎「お施餓鬼のしおり」より

日々の生活を営む事に精一杯で、自分の行いや、考えを顧みる事に気持ちが至っていない毎日を送っている方も多いのではないでしょうか。神社仏閣に参拝する事により、自分自身を振り返り自省(じせい)する、そういう時間を持ちたいものです。